戦争体験を語り継ぐこと
- 2013.11.30 Saturday
- 13:47
戦争体験を語り継ぐこと
それは、ある方のひと言から始まりました。
「戦争の話しをしてもいいかい?」
その方は敗戦の色が濃くなってきた戦争末期、台湾に出征されました。
帰還後は祖国復興の為に働き続けてこられ、今は穏やかな老後をお過ごしです。
今まで戦争のことを話す気にならなかったのは「負けたがゆえに、語らぬことを良しとしなければならない」と思ったからだそうです。
しかし昨今の慰安婦問題や南京問題という歴史の解釈の中で、勇敢で規律正しく戦ったわが日本軍が他国だけではなく、日本人の不勉強によって一方的に貶められている。自分たちの軍隊は、そのような卑劣なことはしていない。れっきとした軍律の下に動いていた事は、自分がようく知っている。今でも軍人勅諭を全文言えるほど規律は大切なもので、それを遵守して戦った。にもかかわらず、嘘がどんどん真実に作り替えられていく。それをこのまま見ているしかないのだろうか・・・
お話を伺ううちに「私達に何か出来る事はないだろうか。」
「もしかしたらこのようなお気持ちの方が、他にもいらっしゃるのではないだろうか」そう思うようになりました。
そんな時、ふと思いついたのです。
ご自分と、戦友と、英霊とそして未来の子孫の名誉のために、真実の戦争体験を語っていただくことで名誉回復にご尽力いただこう。そのためのお手伝いが出来たら・・・そう思ったことが「生き証人プロジェクト」発足のきっかけとなりました。
皆さまも身近な方に本物の戦争体験を聞いてみませんか?歴史の真実に触れることほど貴重な体験はありません。本物の戦争体験を聞かれる時間は正直もうあまり残されていないのです。
私たちは宗教や思想や政治にかかわりません。。ただその体験を真摯に聞かせていただくそのことが出征されたすべての方への恩返しのひとつと思っています。
日本人で良かった。80歳になって心底そう思えるようになった日本人です。何故だかわからないまま全財産を置いて、原爆長崎の瓦礫のまん中に引き揚げて、あんた達が朝鮮人ば苛め自分たちだけ良か暮らしばしてーーだからこげん目に、と。苛められ、2重3重人格で生きてきた私。もう迷わない。命絶えるまで。人攫いが原点の拉致とパクリの妙、まだまだ続きます。(注)反日栗須チャン続々日本上陸。
コメントありがとうございます。
>日本人で良かった。80歳になって心底そう思えるようになった日本人です。
知れば知るほど日本人のすごさがすばらしさがわかってきて、今やっと日本人としての誇りを取り戻すことが出来る時代になったのでしょうか。私も本当に日本人でよかった、、年齢を重ねるごとにその気持ちが強くなります。
コメント有難うございます。
生き証人の方にお話を伺うと、特に慰安婦の話を聞くときには皆さん88歳を越えた男性ですが、女性にこんな話をするのはという感じで気遣って言葉を選びながら話してくださいます。
本当に日本人男性の潔さ良さ、やさしさ。
男としての美意識がそんなところにも感じることが出来ます。
おっしゃるように日本人同士なら通じる美学も世界の腹黒さには通じません。これからは私たちがあったことはあった、なかったことはなかったとはっきり主張していきたいですね。
息子も「戦争体験、直接聞きたいな」と言っていました。「おじいちゃんが生きているうちにいっぱい聞かないとね!」とその頃は軽く笑いながら言っていたものの、その父も気付いたらもう86歳!急がねば・・・という気持ちになりました。(今年は大学受験のため子供の方が時間が取れません ><;)
父はまだ若かったためか戦場に出る手前で終戦を迎えたそうです。(満17歳だったかと。)でも、日本を守りたいと思って志願兵として今の中3ぐらいの年齢で入隊し、飛行場で訓練と作業とに明け暮れていたと聞いています。
そんな若者でも「日本を守る」という志を持っていたことに感動します。戦場まで行かれた方々、いかばかりの想いで出征し、(人を殺すための)武器を握り、辛い環境を耐えてこられたのでしょう。
戦中戦後の酷い時期を生き抜いた方々は、薄っぺらい「戦争反対」は語りません。もちろん、戦争はしない方がいいに決まっている。だからこそ、国防をしっかりしなければ、と父ははっきり申します。従軍慰安婦については直接両親に聞いたことが無かったこと、思い出しました。今度、帰省した際には!
耳が遠くなり始めたので電話が億劫らしく、なかなか出てくれないものですから手紙を送っています。森本様のブログを拝読し、また書こうと思いました。
こちらにもちょこちょこ寄らせていただきたいと思います。
記事を読んでくださって有難うございます
お父様は当時まだ10代で志願兵だったのですね
男の子を育てたことのあるものとしてはそれだけで胸が詰まります
>だからこそ、国防をしっかりしなければ、と父ははっきり申します
戦時を生きぬいた当時の方々の現実を見据えた言葉には重みがあります
どうかお父様にお聞きになられましたら、こちらに投稿してください、待っています
慰安婦についてお聞きするには年齢が若すぎですし、娘さんにはお話し辛いでしょうね、ご無理なさらないでくださいませ
こちらにもお越しいただいてとても感激です。ありがとうございます。
国を守る家族を守る17歳の男の子が志願して入隊、本当に頭が下がります。私も生き証人様にインタビューさせていただくたびに
戦争に行かれた方の言葉の重みと国を思うことの深さに実際的な戦略のすばらしさに気づきます。
戦後GHQや左翼のおかげでいつの間にか残虐な日本兵の汚名を着せられそれでもなおかつ耐えてきた方たちの名誉回復に
この生き証人プロジェクトがほんの少しでもご協力できたらこれ以上の喜びはありません。
どうぞお父様のお話お聞かせください。
当時の若者が国を守るための純粋な気持ち、皆に伝えてほしいです。
そして日本中でたくさんの方が身近な生き証人のお話を聞いて次世代につなげてほしいと思います。
始めまして
村田春樹さんから貴会の事を聞きました。
私の叔父は南洋ナウル島で無事に終戦を迎えましたが
豪軍にマラリア猛生息地のナウル島に連行され
食料も医療も満足に与えられずに意味のない労働を強いられ、
殺す目的のような捕虜収容生活の末、引き上げ目前の昭和21年1月28日にマラリア、アメーバー赤痢、三日熱、脚気の悲惨な戦病死を遂げました。
小学2年の頃叔父さんはピース島で餓死したと聞いてからピース島の手がかりを探し続けてやっと去年靖国神社で祭神として祭られ所属部隊、戦死島をしりました。
それから必死で叔父さんの消息を探し求めて居ますが、資料書籍もわずかしかありません。
30年遅かったのです。当時だったら戦友会もあり叔父さんが如何にして死に至ったのかを知っている方々もいた事でしょう。
残念でなりません。
私は介護の仕事をしていますが、所属して居る会社経営のデイで昭和2年生まれの女性が興味深い話をしましたので
その話詳しく聞かせてくれませんかとお願いしました。
生家は日本橋で木綿問屋を手広く経営していて地主だったそうですが、
女子大に合格したのに洗脳されていたので女子挺身隊に入ったそうです、
市ヶ谷の参謀本部でタイプで電報を送る助手のような仕事だったそうです。
そこでは東條英機首相とも何度もあって居るそうです。
妹は中島飛行機の工場に回されたので爆撃にあって亡くなったそうです。
資料もあるからどこかに寄付しようかと思っていると仰っていたので是非見せて下さいとお願いしました。
興味ありますか!
ブログ
「77歳いまだ現役!日々録」
http://blog.livedoor.jp/monnti3515/
「さんごママ」
コメントを頂きましてどうもありがとうございます。
戦病死された叔父様のお話、胸が苦しくなります。でも所属部隊がわかり靖国で祭神となられていらっしゃるのですね。さんごママさんのようにもっと早く御話を聞いてたら、と、そんな御身内がおおいのではと思っています。
生き証人様に御話を聞く機会も本当に少なくなってしまいました。
さんごママさんの御知り合いの方の御話ぜひうかがわせていただきたいと思います。
ご連絡させてただきますのでそのときにはどうぞよろしくお願いします。
先日送信して頂いたメールが行方不明になりました。
もうしわけございませんが再度送信して頂けませんか、
なぜか大事なメールが行方不明になります。
さんごママ
すみません。
次回は1/9日12時よりー忘年会新年会をするそうですー偕行社にて
↑の件詳しくお知らせ下さいませ。